槇原敬之は大学(青学)中退!学科は?三浪までしたのになぜ?

「どんなときも」や「遠く遠く」、「世界に一つだけの花」など数多くのヒット曲を生み出し多くの人々に愛されている槇原敬之さんは、実は青山学院大学を中退されているんです。

三浪してまで入った青学をなぜ退学されたのでしょうか

また、槇原敬之さんは青学の何の学科に進学されたのでしょうか

 

ということで今回は、槇原敬之さんの大学事情について調査しました!

なんとあの名曲は受験生の時に生まれたそうですよ!

それではどうぞ!

この記事は3分程度で読める内容です。

 

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槇原敬之は青学を中退、なぜ?

 

槇原さんがなぜ青学を中退されたのかは公式には説明されていないようです

ただ槇原さんは浪人中にメジャーデビューをはたし、青学入学前に有名歌手になっていました。

このことを考えると、おそらく多忙により大学へ通うことが難しくなり、泣く泣く中退の道を選んだのではないかと思われます。

 

 

槇原敬之は青山学院大学出身!学科はどこだった?

引用元:https://up-j.shigaku.go.jp/school/category01/00000000259101000.html

 

槇原敬之さんは青山学院大学第二部文学部英米文学科に在籍されていました。

なぜ英米文学科を選んだのかは分かりませんでしたが、青学は「英語の青山」といわれるくらい英語の学力が高く、そして留学する学生も多いので「絶対に成長出来る!」と確信していたのかもしれません。

 

ちなみに第二部はいわゆる夜間部で、青学の第二部は現在廃止されています。

偏差値は昼間部においては60~70といわれていますが、第二部は噂によると50以下だったとも…

ただ槇原さんが受験していた1980年代後半から90年代前半は私大バブル真っ只中で、第二部に入ることもかなり厳しかったそうです。

また、槇原さんは青学を受験する頃にはすでに歌手としてデビューもしていたため、仕事と勉強の両立をするには二部の方が都合が良かったのかもしれません。

 

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槇原敬之は青山学院大学に三浪の末合格、どうしてそこまで青学にこだわった?

引用元:https://middle-edge.jp/articles/xL07v

 

槇原敬之さんは冒頭でもお話した通り、青学に入学するまで三浪していました。

なぜそこまでして青学に?!すでに歌手デビューもしていたのに?とつい思ってしまった方も少なくないはず。

 

 

“青学”にこだわった理由は?

どうして青学にこだわったのかについては明確な情報を得ることが出来ませんでしたが、噂によると「サザンオールスターズが青学出身だったから」だそうな。

でも槇原さんが憧れ、敬愛していると公表していたのはYMOのメンバーである坂本龍一さんなんですよね。

その後も小田和正さんや松任谷由実さん、カーペンターズやボニー・レイトといったアーティストの音楽を聴いていたとおっしゃっていますし、そもそも槇原さんの音楽とサザンの音楽って雰囲気も全く異なっていますし…。

 

大阪府高槻市に生まれた槇原敬之は、彼が小学6年生の時、「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」の音楽に衝撃を受けます。シンセサイザーとコンピュータを駆使した、いままで出会ったことの無い音楽にとりつかれた槇原敬之は、自分自身も、音楽に関わりたいと思うようになります。

引用元:http://hfm.jp/blog/shokutaku/2008/11/post_32.html

 

槇原敬之は、敬愛する坂本龍一の音楽を通して、小田和正、松任谷由実といった、日本のアーティストたちの音楽に触れたり、当時、彼が入り浸っていた、近所の楽器店の店長を通して、カーペンターズ、ボニー・レイトと言った、洋楽も聴き始め、さまざまな音楽をタップリと吸収していきます。

引用元:http://hfm.jp/blog/shokutaku/2008/11/post_32.html

 

青学にこだわった理由としては信憑性に欠けるなぁ…と私は思ってしまいました。

 

 

“大学進学”にこだわった理由は?

大学進学にこだわった理由は判明しました!

どうやら、親に迷惑をかけてしまったから、せめて大学進学だけは果たそう!という思いからだったそう。

 

二浪の時点でプロの歌手としてデビューはしていたが、親に迷惑をかけた手前、せめて大学だけは合格しなければ、という思いが強かった。

引用元:https://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/07/kiji/K20110702001124980.html

 

また、ご両親自身も大学に進学して安定した道を歩んで欲しいという思いが強かったようです。

 

ただ…唯一怖いものは、親との電話でした。「そんな歌手なんかやっていても、やっていける訳はない。早く大学に入りなさい!」という感じで、いつも親と電話をしていました。自分が浪人中だったのもありますが。

引用元:http://hfm.jp/blog/shokutaku/2008/11/post_32.html

 

当時の槇原さんは歌手としてデビューはしていたものの、ガッツリ売れていたわけではありませんでした。

もし私に当時の槇原さんと同じ状況の子どもがいたとしたら、おそらく私も槇原さんのご両親と同じ言葉をかけていたと思います。

「メジャーデビューは凄いし誇らしいけれど、お願いだから真面目に勉強して浪人生活を脱却して!!」って懇願していたことでしょう。(笑)

 

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あの名曲は三浪中に誕生した?!

 

槇原敬之さんの「どんなときも」って、凄く有名ですよね。

一度聴いたら頭から離れず、つい口ずさんでしまうメロディーと歌詞です。

実はこの「どんなときも」が、浪人中に生まれた曲だったんです!

▶︎YouTubeで見る

この曲は織田裕二さんらが出演した映画「就職戦線異状なし」の主題歌として作られたものだったのですが、この仕事がきた当時の槙原さんは無事受験を終え、合格発表を待っている時だったのだそうです。

 

音楽関係者から映画の主題歌の依頼があった際、槇原は大学の合格発表を待っている最中だった。すでに三浪中の身。

引用元:https://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/07/kiji/K20110702001124980.html

 

「若者たちの応援歌を」という希望だったそうですが、槇原さんは“自分への応援歌”として「どんなときも」を作ったそう。

 

「若者たちの応援歌を」というオーダーだったが、「自分への応援歌。大学受験がどんな結果になっても僕は僕らしく、という思いを込めた」。

引用元:https://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/07/kiji/K20110702001124980.html

 

当時は他人の応援が出来る程の余裕もなかったでしょう。

でもこの曲が多くの人の心に響きミリオンヒットに繋がったのですから、当初のオーダーはきちんと叶えましたよね!

 

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さいごに

 

いかがだったでしょうか!

槇原さんが三浪して青学に進学されていたことを知った時はかなり衝撃を受けました。

だって三浪って経済的な面でも精神的な面でもなかなか出来ることではないですし、プレッシャーもかなりかかってくると思うんですよね。

改めて槇原敬之さんの凄さを実感した話でした。(笑)

 

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